明和義人祭

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明和義人とは

18世紀半ば、江戸では第十代将軍徳川家治の御用人・田沼意次が幕府の政治を仕切っていました。同じ頃、新潟湊では困窮する町民の暮らしを救おうと立ち上がり、藩に代わり自らの手で町政を実現した人々がいました。自主自立の精神とエネルギーにあふれる住民自治の幕開でした。
後世の人々は、この出来事を誇るべき歴史として口伝にて伝え、町のために働いた涌井藤四郎、岩船屋左次兵衛を中心とする人々を「明和義人」として崇め、明治時代に入ってから愛宕神社境内社、口之神社に祀りました。

ことの起こりと経過

明和4(1767)年、財政悪化に苦しむ長岡藩は、湊を運営する新潟町民に多額の御用金を納めるように命じました。半年は翌年の支払いとなりましたが、ますます不景気になり、支払いがむずかしくなりました。翌5年9月13日、涌井藤四郎は支払いを延ばしてもらおうと考え、同じ意見の人々が集まり、話し合いをしました。
長岡藩の命を受けた町会所は、藤四郎たちが勝手に集まって悪いことを計画しているとして、9月20日、藩の指示を受けて、藤四郎を捕まえて牢にに入れたり、話し合いに参加した人たちを牢に閉じ込めたりしました。
これに町の人たちは反発しました。9月26日夜、大勢の人が集まって、有力町民や町内会で仕事をしている人の家や、米を買い占めて町の人を困らせている商人の家を、次々とうちこわしました。奉行所は、人々の動きを鎮めようとしましたが失敗し、このため藩は藤四郎たちを自由にしました。翌27日も町の人々はうちこわしを繰り返し、さらに奉行所へと向かいましたが、藤四郎は人々を押し留めました。
新潟町の人々は藤四郎を新潟町民の代表とする体制を整え、秩序の回復に努めました。長岡藩は町会所による町政運営を再び始めようとしましたがうまくいかず、その後、2ヶ月に及ぶ藤四郎たち町民の手による自治が行われました。
11月末になり、長岡藩は藤四郎たちを捕らえました。そして、事件を招いた町内会の有力町民を処罰するとともに、藤四郎とうちこわしに深くかかわったとされる岩船屋左次兵衛を打ち首にし、新潟町には罰金を科しました。
新潟町の人々は、藤四郎たちを町のために働いたのに理不尽に殺された人々と考え、ひそかに祀りました。そして、この事件を町の誇るべき歴史として後世に伝えました。後に涌井藤四郎、岩船屋左次兵衛を中心とする町の人々は義民、義人と呼ばれるようになり、昭和3(1928)年には白山公園に明和義人之顕彰碑が建てられました。

明和前後の全国の動き

各藩が改革に努めるなかで、全国的に一揆やうちこわしが起こった時代でした。

宝暦5年 1755 奥羽・越後で飢饉が起こる
宝暦10年 1760 徳川家治が将軍になる
明和元年 1764 信濃・上野・下野・武蔵の農民20万人が一揆を起こす
明和4年 1767 田沼意次が御用人となる
竹内式部が流罪途中の三宅島で死亡する
米沢藩で上杉鷹山の改革が始まる
明和5年 1768 大坂でうちこわしが起こる
明和6年 1769 幕府が徒党強訴の際の鎮圧を周辺の領主に命ずる
明和8年 1771 前野良沢らが「解体新書」の翻訳を始める
明和9年 1772 会津藩で藩政改革が始まる
田沼意次が老中となる
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